鶴岡美直子
Archives

【著書・出版物など】
1981.詩集「ボタン落しの難所」出版
1987.詩集「ウーシカ」出版
1990.詩集「マライカ」出版
2001.「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」出版
2009_05_誌と思想
2012_誌と思想詩人集
著書のメディア紹介・書評など


【1971~1988】
1971.潮流詩派会員になる
1973~1976
1977~1978
谷中コミュニティーセンター設立運動 
1981.精神の幾何学展
1982~87.印紗羅
1987.点滅して光なり
1988.漉林企画第一回詩画展
1988.ツルオカミネコ詩の夕辺
1986~90.JAALA展


【1988~現在】
1988.鶴岡美直子個展.レターボックスⅢ
1990.STEP0展
1990.「詩と思想」ポエムリサイタル
1991~2001アフリカ居酒屋バオバブ
2003~2004.バオバブ通信
2003.SUKIMA展
2003.リーディング風景
2003~2005.リーディングetc.
2004~2005.WORM HOLE
2011_01_30 “HIGURE” 


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※現在アーカイブは資料を収集・確認しつつまったり更新中です。

ボタン落しの難所
棚谷理加(鶴岡美直子)詩集

“ タイトルマッチ ” 詩:鶴岡美直子

「おまえは台所に転がる漬け物石だ!」
「何だい売れない絵ばかり画いて!」
「ばかやろう」
「守衛の仕事でもしたら!」
「絵を止めろと言うのか!」
「朝から晩まで一銭にもならない事ばかりして」
「赤んぼうを泣かすな 絵が画けない」
「三人も子供がいるのになんとかしてよ!」
「デッサン持って行け!」
「判らない絵ばかり画いてこんなもの売れのこりよ!」
ポカリポカスカ ポカポカ始る
負けそうなおかあさんそうはならじと
おとうさんのボールにタックル
我家のラグビー戦が始まる
おねえちゃんぐるぐる回って
泣き出す子供達は見物席
長襦袢もしどけなく薪さっぱに追われて
どしゃ振りの雨の中逃げ出すおかあさん
むんずとつかむ片袖するりと落ちて
裸のおかあさん暗闇に消える
褌姿のおとうさん
白い裸体の消えた辺りをみつめ立ちつくす
街灯がにじみ
あたりを死者眠る寺々の静けさが包む




 

ボタン落しの難所(潮流出版社/1981出版)棚谷理加(鶴岡美直子)詩集
ボタン落しの難所(潮流出版社/1981出版)棚谷理加(鶴岡美直子)詩集

ウーシカ
鶴岡美直子詩集

“ ウーシカ ”…少し先、明日の朝という意味です。
人間発生の地、トルカナまでの旅、ケニヤとタンザニア旅行の詩。
表紙の絵はマコンデ彫刻「ウジャマ」をモチーフにしたもの。
“ ウジャマ ”…人が人を助けて生きる、という意味。



「トルカナ」詩:鶴岡美直子

雨期の雲走り去り
いたずらに雲浮かぶ
砂塵巻きあげ地平線を直角に切る
小型トラックは車輪を
巻き込まれながら
つっぱしる
荷台のたまねぎじゃがいもトランク
人間は荷台の上で炒りあげられる
砂をまぶされ
無言のままに誰もが
遠くの駱駝を見る
のこされたブッシュと草を食べている
アフリカに駱駝が……
朦朧とした疑問が反芻する
喉も瞳も砂まみれ
この荷でツーリストが数人
今夜のディナーを味わうのだ

数年前まで水があったという
パームツリーのまんじゅう型の家に住む人々
遠方から一日がかりで水を運ぶ
地酒の甘酸ぱさと優しさは
噛み煙草の痛さにも麻痺した
人々を癒す

老人の持つ鞭は強靭な音たて
いたずらな子らをこらしめる
砂漠化してゆく大地に
生き続けるしたたかさが
音たてて跳ねあがる
アキレスの黒い弓を胸に抱いた老人
瞳の奥から
太古の光を返して来る
風の神の目をした
樫の木の声を持った大木(ヒト)に
恐怖と驚きと
いつか逢った男を想い出そうとしている間に
細くて長い足で
ゆったりと
なつかしい後姿

肩から布を巻き
駝鳥の髪かざりの王冠をかぶり
裸足で
ふらりぷらりと確かに去って行く

海とも見える湖に
フラミンゴと河馬と鰐が住む
気がむけば
パームツリーの葉の家をたたみ
頭上に乗せて
《ちょっと》と引越してゆく
気がむけば
パームツリーの葉に魚を下げて家路に
気がむけば地酒で宴会
満天の天の川
月光も登るころ
産まれる者も死にゆく者も
今泣いて明日笑う
砂の上の赤児もはいまわる

雨期の雲走り去り
雲いたずらに浮かぶ

雪の振り積もる夜に
旅立った
貧しい胸の傷を
一瞬にして干しあげてしまう
ガゼルが走る
水を待つ草々の
赤土色に変りはてた種々の思いに胸ふさぐ
ダニエル十三歳 ジャクソン十二歳
少年の遊歩の案内に
ひたすら近づくことさえも必死
忘れていた人間の歩みを追う
文明も近づかぬトルカナ湖地方
少年のふるさとに
一夜を借りる
土壁の透き間から
月光射す
満天の天の川降りそそぐ



「ウーシカとキューカ」詩:鶴岡美直子

 

いっぱいとすこし
夏には熱湯 冬には氷
男と女
子供と大人
ブッシュの肉たち木の実たち
太陽に
焼き殺されないためには
これ以上はたくさんになる
年はいらない
いるのは家族の社会の子供たち
昨日を捨てられなきゃ死ぬしかない
心配なんかさらさらない
月が大きくなってそれともなくなったとき
夜と昼と平和と平等
これっきりそれきり気の根っこ

※ウーシカ=明日、朝
※キューカ=昨日、昨夜
※ブッシュ=薮


 

ウーシカ(漉林書房/1987出版)鶴岡美直子詩集
ウーシカ(漉林書房/1987出版)鶴岡美直子詩集

マライカ
鶴岡美直子詩集

「水玉」 詩:鶴岡美直子
ピンクの女がバスケットをする
ブルーの女が笑っている
四角い顔の女が泳いでいる
グリーンの女は俺の妻
レッドは恋人
いつも男はノーマネーのからっけつ
縞のズボンに 帽子
ピアノだってドラムだって水玉模様
ダンスだってセックスだって渦巻き模様
地球も太陽もまんまるさ
ピンクもブルーも女房にして
夕方 安宿からスケッチを抱え
クラブやバーで客探し
イェローやホワイトがお客
いつだって何処だって水玉模様



「ソーサラ」 詩:鶴岡美直子
迷路の中で
トタン屋根のキロバーは
夜にはディスコになる
ミュージシャンがやってきた
ダラマス・オジデジ ルオースタイルの
奏者が
モスキートキラーの缶に小石入りマラカスと
鉛管の笛を吹く
唄を唄う
マダムが踊る
ヒリヒリヒリヒリー歓喜の唄
ソーサラがやって来て呪文を唱え
不在の友人の病を語り出す
ビールのラッパ呑み
マンブレオだ
踊るソーサラ
男も女もほろ酔い
ジャパニーの来客に景気づく
女の腰足肩首頭胸
波が揺れる
老婆のソーサラが広場で
立ち小便をする
輪になる家と迷路
塀のない町
壷の中でカランガが煮える
夕方になれば
荷車を引いて
男が帰ってくる
街灯が無い町
窓からランプの灯がこぼれ
縁台に集まる男
ボスと若者が
ゲームをしている
コインを握り
応援する人の輪
女も露店をたたみ帰っていく
米ソーサラ→祈祷師 マンブレオ→祭り



「サイザル」詩:鶴岡美直子
校庭で
布を巻きボール投げする
逆立ちする少年
植え込みから覗く
“ ツインビー! ”
でぶっちょをツインビーが呼ぶ
生け垣に並んだ顔
芝生のうえ
褐土のうえ
全員裸足で跳ねまわる
アボガドとマンゴーが色づき始めた側道
午後には
薪を買いに
ワンピース破れ目から肩が覗く
製粉所は毎日子供や女で賑わう
足と手と頬を白くして
荷を頭上に
土手を帰っていく

※サイザル→繊維で篭を編むアロエに似た植物


 

マライカ(潮流出版社/1990出版)鶴岡美直子詩集
マライカ(潮流出版社/1990出版)鶴岡美直子詩集

ボタン落し
画家鶴岡政男の生涯

「ボタン落しの難所」
(“ボタン落し画家鶴岡政男の生涯”から抜粋)

 我家の玄関は開きもしなければ閉じもしない。オーバーを着て着膨れした来客は横になって通るからボタンが玄関にひっかかり「ボタン落しの難所」と呼ばれた。
大正時代のはじめに古材木で建てられ関東大震災にも耐えて傾いた空き家だった。
窓や玄関のガラスもところどころ割れている、
そんな家に昭和二十年、焼け出された家族は暮らし始めた。
ボタン落しの難所をこそどろが狙う。時折りおんぼろこうもり傘やズックがなくなる。
妊婦にとっては必死の問題でお腹をつぶさないようにとゆっくり通る。(昭和二十二年)霜柱も消え春一番が吹く頃に、裏の寺の庭の枇杷の木に鶯がやってくる。
家の前の通りに桜が咲く頃になれば、表通りにある大門から寺への参詣道が花のトンネルになる。
冬の間に何処からか取ってきて干しておいた竹を縁側に並べては釣竿の竹作りに精を出すのは父。小春日和の日差しの中で、竹の曲がり具合いを見ている。
わたしは熱も上がらないのに肺炎に罹っていた。おかしな様子に父は慌てて手に持った竹を横に置く。
薬も無く胸はヒューヒューと深呼吸するたびに音がする。
母は父の浴衣をほどいたり、湯を沸かしたり忙しい。父と母は夜を明かして浴衣の布で熱い湿布をしては看病をする。わたしは眠りの中に意識が消え次の日も苦しい息づかいをしていた。
父は夕方帰宅すると手にした竹の皮の中から、二切れの四角い肉を取り出した。
《これがとてもいいそうだ!》母もこれにはびっくりした。二枚の肉は、ぺたりとわたしの胸に張られた。馬肉の感触はひんやりとして気味の悪さを忘れさせた。
次の日の夕方内科医がやってくる。ボタン落しの難所を出ていく時に《お金はいつでもいいですよ!》と言われる。
馬島了先生は黒い自転車の荷台に丸くふくらんだ鞄をくくりながら、早口に繰り返し説明をしながら目をしばたかせる。
《無熱性の肺炎だなんてびっくりしたわ》《貧乏人には急いで代金を請求しないので助かる。……ペニシリンという薬だそうだ》とふと目が覚めると枕元で、両親がひそひそと話している。
《進駐軍からでも手に入れたのだろうか》と父はつぶやく。
 わたしは夜が恐かった。家の周りが寺に囲まれ、卒塔婆の塀が家の前に立っていた。
闇がやってくると裸電球が一つあるだけの我家はあっちにこっちにと電球が移動してぶらさげられた。母は肺炎が回復するとほっとして、薄暗い台所で夕食の支度をしている卓袱台の上にすいとんが並ぶ。小麦粉ばかりの水団で《これはなーに》と聞いたが《水団だよ、文句をいわずに食べなさい》……。わずかな塩味ばかりの汁だ。
 母はひろ子が学校に行った後、裏のガラス戸を開き放して長箒を使っている。父は奥の部屋に万年床を敷き詰めて寝たり起きたりしている。
畳二畳と一畳ほどの板の間の空間に、絵の具や筆壷や雑誌などと一緒に古い笈と魚の骨が一匹置かれていた部屋は、家族が寝起きする部屋の奥にあった。《魚は永遠の命を表わし、無限大の意味がある》…と母は父に話す。
顔じゅう髭ぼうぼうの父は、戦地からの病あがりで、時折り胃痙攣を起こしていた。
筆壷のうしろに白い乳鉢と一緒にキニーネの枝が置かれている。マラリヤが起きた時の予防薬だった。
寝床から起きあがり布団の上で藁半紙にデッサンを描き出した。父のうしろの柱にアフリカの仮面が飾られていた。
母はゆっくりと箒を使っている。わたしが奥の部屋の唐紙を開けると父はこちらを見る。母は目でわたしを静止したが、這いずって父の布団の中へもぐり込んだ。
数枚のデッサンを父はわたしに見せる。魚の骨の形に似た船が描かれている。
《これに乗って広い海へ漕ぎ出すんだよ》船には沢山のオールが描かれている。
面白い船の形だと思ったが幼すぎたのでわたしにはその意味が理解できなかった。父の自画像や、歩き出したわたしのデッサンを描いている。父の顔によく似た振り返る牛の傍らに小さな幼児が描かれている。仲むつまじく暮らしていくことが父のその頃の夢だったのだろうか。そうかと思うと手造りの籖でグライダーを造ると野原で飛ばしている父に《働いて欲しいのに》と母は困った。
《生活して行けない》と言って母はMP(ミリタリーポリス)のメイドとして働きに出るようになった。夕方家に帰った母は、五個の石鹸を父に渡す。
《部屋の掃除をしていると、MPが帰ってきて、ベットの上に五個の石鹸を置いて、ここに座れ!と言われたので石鹸をひったくると帰ってきちゃったわ!》などと話す。
昼の弁当にうどん粉を焼いて持っていく粗末な食事で母は痩せている。
《美直子が病気になったので、お金になる仕事だけどやめてしまうわ!》
裏の縁側の棚には父が読んでいる太宰治の「斜陽」や夏目漱石の「心」、昭和初期にドイツに美術学校があったその「バウハウス」の本が、D・H・ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」の豆本と一緒に並んでいる。「チャタレイ夫人の恋人」がその頃ひそかに売られていた。その横に軍隊スボンの足元を巻くゲートルと毒ガスマスクと買い出し用の手縫いのリュックサックが置かれている。
便所の外側に手洗い用にとメルメットに水を入れて下げてある。
メイドの仕事をやめたので母は田舎に米の買い出しにいき、新しい生活がはじまり、田舎にあずけていた着物が米に変わり、そして臼をどこからか借りてきた。
父は墓の四角い塔婆で杵を造り、墓の花入れの竹を裂いて団子の串を作る。
祖母が相の手を入れ、父が餅を搗く。
台所の奥では蒸籠から湯気が出ている。
二畳は白い粉でまるめた丸い餅で一杯になり団子屋に早変わりした。
わたしは三畳の布団から首を出し、父や母や祖母や時には姉や叔母が手伝ったりしては、粉で餅をまるめる姿を見ている。《ひとつちょうだい》とできそこないをもらい《もうひとつちょうだい》というと《売り物は駄目》と母にいわれた。
母は首に箱を下げて団子を売りに御徒町に出かける。米の食べられないときなので米の本物の餅だからよく売れる。水団屋に行列ができるので並んで売る。よく団子が売れるので、母は田舎に米を買い出しにいく。母はリュックサックに入れた米を担ぎ父の軍隊ズボンを履いた姿で帰ってくる。
 そんなある日、母が売り上げの手下げ袋を手に空箱を背にして、御徒町から上野の山を越えて帰ってくる途中で、若い男に手下げ袋を取られた。《どろぼー!どろぼー!》大黒天の辺りから言問い通りへ追い駆けた。走る……どんどん男が見えなくなった。
それでも《どろぼー!》と追い駆ける、逃げる男、何処かで《どろぼー!》と女の声、追い駆ける母の後からそれを追い駆ける街の人、若い男の前からも街の人が出た。
《どろぼーは何処だ!》と街の人が聞くと、《どろぼうはあっち》と若い男が答える。
そこへ裸足の母が走って来て、《この人がどろぼうです》交番に突き出された若い男は軍隊帰りの軍人さんだった。後から下駄や箱を持って町の人がやってきた。
不吉な事があったので大福餅を作ることになったのだが朝になれば、ひろ子と母が忙しく働いている。朝早くから家の周りや玄関を掃いたり拭いたりするのがひろ子の仕事で、食事が済むと学校にいく。父は大福作りが終わるとわたしの寝床に入ってくる。ぢゃれ合うひとときがある。わたしはきっと父にも母にも姉にも世話ばかりかけていたのだろう。
祖母は大福餅を骨董市に売りに出た。父は画用紙にエスキースを描きはじめる。
父はとても美しいメロディを時としてうたう。《君よ知るや南の国、花はのどけく、鳥はうたい……》どんなにきれいな鳥だろうかと想像して聞いていた。
その頃、谷中の伊東歯科医院を訪ねた祖母は《孫の具合が悪いので買ってください》と油絵を売りに行ったとのことだった。永いあいだ応接室にその絵は掛けられて、わたしの友人の稲田さんが見つけた。祖母や母のいない昼さがりに、父は修験者などが衣類や食器などを入れて背負う笈の中から茶道具を出して一服の茶をたてる。
子供には、ただ苦いばかりで思わず茶碗の中を覗き込むと、ぷくぷくと泡のたつ緑色の飲み物だった。父は家にいることの多いわたしのために蜜柑箱の中から兎の赤ちゃんを一羽とり出して抱かせた。子兎を抱きしめて遊んでは、いつしか玄関を出て、ピョンと手の中を抜けだす兎を追い駆ける。
敷き石道を逃げていく兎を強く抱きしめると胸の中で一瞬にして死んでしまった。悲しくて恐いわからない出来事だ。
 暑い梅雨の夜は寝苦しい。父は一輪の泰山木の花を持って帰ってきた。
花は古い大きな油壷に投げ込まれた。
ビロードの花弁の芯から部屋一杯に香りが満ちる。褐色に焼けた穴だらけの畳に置かれた壷の、無造作な姿とは似合わない甘い香りが、雨音を消して眠りが意識を遠のかせる。
わたしは父に少しずつ外に連れ出された。
 上野の博物館にいく。
庭で日の丸弁当を食べると、弁当箱におたまじゃくしをすくって入れた。池の水に手を怖々入れるとおたまじゃくしは逃げる。水の波紋におどろき枯葉や水をすくった。
 秋には家族で上野動物園にいって遊ぶ。
二段のお重箱を開いて、子供動物園の横で芋を食べて、鶴舎の近くを散歩する。
戦争中に毒殺されていたのでライオンも象もいない。父は鳥舎のデッサンを描いている。それは平和な一瞬の安らぎだろうか。
そのころ父は奥の部屋で祖母が家族と一緒にグライダーに乗って、長い煙管をふかしているデッサンを描いている。平穏な日々が続いて、ほっと一息する毎日に、母は暖かな日射しの中に坐ると、長い髪の毛を梳かしはじめる。髪を二つ編み終わると頭の上の方に持っていって、U字型のピンでとめる。
母の膝の上に顔をうずめると良い香がする。わたしは四歳を過ぎて妹が産まれるまで母の乳を吸っていた。父もそんなひとときを描いている。
トランクを明るい日射しの中で広げはじめた母は楽しそうに話はじめる。
《これは長襦袢の端布よ…これはね日本髪のしぼりの布よ》と数枚の布を広げた。花模様や薬玉や牛車や黄色や朱色が日射しの中で広げられる。
《これはおねえちゃんが着るので上げたのよ》と叔母の話を始める。《あとはみんな無くなってしまったわ》と話しが終らないうちに……。
横で絵を描いていた父は立ち上がると、トランクを蹴とばしたから、黒いトランクから布が飛び出し目迷いがするばかりに、朱色や水色の薬玉模様が飛び散った。後は無言の父を見上げていた。
売る着物も無くなった頃に米が山と積まれていると近所の者が交番に届け出たので、お巡りさんが《裏庭みせろ!》とやって来た。もぬけの殻の裏庭の便所の窓の外に下げた鉄兜をポンとはたいて帰っていった。僅かな米を団子にしてあるわけもなかった。貧乏神と病気神が家に居座る。
《父は胃痙攣を起こした。《背中の上に乗れ!》というので母はしかたなしに乗る。…《跳ねろ!》。跳ねる母……。とうとう肋骨を折ってしまった。父は黒い色をしたイシチョールを布に着け背中に貼ると布団の中に寝ている。起きあがっては又、デッサンを描きはじめる。
 父は仕事も無く絵も売れないので手製の釣竿を持って夜釣にいく。横浜の防波堤をこつこつと歩いて、黒鯛を釣って帰ってくる。母は黒鯛を持って売りにいく。近所の寺や染め物をする知人を訪ね夕飯の米を買って帰ってくる。
子供達は卓袱台を囲む、小さな売れない魚の煮付けが皿の上にのぼる。わたしは甘味のある小魚が大好きだ。上手に食べるので父はほめる。祖母は骨に湯をかけて汁まですすった。姉はわたしと年が離れていたせいか、大人達の中で世話をされて、育てられたせいか細かな作業が下手なので小魚を食べるのがにがてだった。大切な身をボロボロとつついてのこすので、父に叱られる。…叱かられるので魚が嫌いになった。嫌いになったので上手に食べられない……。
父は釣名人となり釣政と船頭から呼ばれた。毎日売りにいくので時には寺の奥方から《こう黒鯛ばかりではにおいが鼻につくわ…》といわれる…と母は話す。
それでも父は黒鯛を釣りにいき、そして釣り竿作りに精をだす。
竿の曲り具合はいかがと、糸巻いて漆を塗ってできあがる。
ぼら、穴子、河豚、皮剥…。時には何も釣れない日には沢山の蟹を捕ってきた。蒸し上った赤い色をした蟹を食べるのはこの上なく美味だ。
《ここはガニといって食べられないのだよ》と話しながらむしり取った肉を口に入れてくれるのでこんなに肉が甘くて美味いことにおどろいた。
 天気の悪い日に父は絵を描いている。シャンデリアの下で鼻が談合しているヤルタ会談の絵を描いた。溶き油がないので石油で絵を描いた。やっとの思いで溶き油を買うと絵を描いた。
「月と涙」「さざんか」。売れない。売れないので注文の絵を描く。
近くの郵便局長夫妻の肖像画を描いてもすぐにお金は無くなった。
雨が降り続いて土が鳴いている。
《あれはね、みみずが鳴いているんだよ!》……《さあもう、おやすみ》
眠りを覚まされる突然はじまった火の付くような喧嘩だ。
《なんだい売れない絵ばかり描いて》
《馬鹿やろう!お前は台所に転がる漬け物石だ!》《守衛の仕事でもしたら!》《絵をやめろというのか》《朝から晩まで一銭にもならないことばかりして!》
ポカリポカスカ、ポカポカはじまる。
いつも泣いていて、泣きぼくろをつけている母が今日も負けそうな母は、そうはならじと、父のボールにタックルした。我家のラグビー戦がはじまる。ひろ子はぐるぐる回って泣きだす。わたしは少し離れて困りはてていた。
母は折り鶴模様や花模様の小さくなった子供の着物の布で作った赤い長襦袢もしどけなく、薪ざっぽに追われて、どしゃ降りの雨の中へ逃げ出した。父はそうはさせじと片袖をつかんだ。するりと抜けて、裸の母は暗闇の中に走り去っていく。
褌姿の父は白い裸体の消えた辺りをみつめて立ちつくしていた。街灯がにじみ、辺りを死者眠る寺々の静けさが包む。のちに野末さんの明さんから《おまえのおふくろが裸で玄関に飛び込んできてさ、俺のおふくろの着物を貸したんだよ》…といわれた。
 となりの家の鈴木さんは指物師をやめ守衛になった勤め人だ。母は月給取りの鈴木さんの生活がうらやましかったのだろうか。鈴木さんは今日は縁台作りに忙しい。
暑い日が続くので葡萄棚を直したりしている。長屋の角地の入口にそれでも今年は五房ほど実をつけた。パッチ一枚で鉋をかけている、おやじさんの背中から胸には少しばかり色が褪めた彫り物がある。《てっはっはっは!》と陽気な笑いが楽しそうだ。鈴木さんのおばあさんが何処からか帰ってくる。七輪で薪を焚き鍋の中でどこかでもらってきたくず野菜をぐつぐつ煮ている。誰も何もいわない、聞かない。おばあさんは誰にも何も言わないで食べている《どうも気がおかしいかな》と子供たちは気付きはじめた。今日もかがんだ後ろ姿が七輪の前にある。
鈴木さんにはわたしの幼なじみのかよちゃんとかずちゃんと、そのおかあさんのとらさんとおやじさんと、おばあさんと暮らしているが、いつも病気がちなとらさんは名前とは反対にひっそりと内職をしている。鈴木さんのおばあさんは家人の留守にひっそりと死んでいった。ただそれだけの小さな部屋は変わりない。
 窓の外の朝顔に水をあげていると、下駄の歯入れ屋さんが通っていく。
高下駄を履いて、黒いズボンに白いYシャツの袖をまくって、すぼめたこうもり傘に商売道具の風呂敷包みを引っかけ肩に担いで麦藁帽子のおやじさんが出勤する。
手拭い裂いて作ったベルトはいかしてる。宮本さんは、最近ひっこしてきた。お巡りさんあがりだとか、目の玉をギョロつかせる、無口な日に焼けたおじさんだ。
 戦争で男性が戦死して不足していたり、仕事が無いま図し乏しい生活の中で女達が暮らしている。長屋の奥に二号さんが二人住んでいた。台所の近い部屋に酒屋の二号さんが子持ちで借りて、廊下の奥の部屋にひっそり唐紙一枚へだててもうひとり二号さんが暮らしている。せっちゃんのおとうさんは月に一度くる。なんでも本宅には子供がいないとか……。
奥の二号さんのところにはちょくちょく通ってくるので、せっちゃんのおばさんは焼き餅焼いてしょうがない。うちの台所の入口で大声で悪口を母にいっている。
《馬鹿野郎!》と鶴岡にどなられた。せっちゃん家のおばさんはこそこそと帰っていく。
父はいつも絵を描いていて、静かな父だが突然爆発した。
ポカリ




! とやられて、母は目の周りを青くして共同水道で洗濯をしている。
 裏の友枝さんの家にいくと仕事部屋に、沢山のフランス人形のマスクが並べてある。
白いガーゼのマスクに顔を画くのが仕事だ。日本画家だと聞いたが内職が続かないのか仕事が無いのか奥さんがいつもこぼしている。鶴岡も蒔絵の仕事を世話してもらった。
鴬谷にある職人の家に母はわたしの手を引いて仕事を取りにいく。
鶴岡は器用な上に上手で研究熱心なので上達が速かった。
母は漆で目の上を腫らして父の仕事を手伝った。父は漆のついた手で手洗いにいくので、股がかゆいと言っては母と二人で大笑いをしている。
せっちゃん家のお母さんが手造りの人形を持ってきて、父に顔を描いてほしいと頼んでいる。少しの間全体を見て、細筆で黒い目と鼻と赤で口を描いた。
平らな人形の顔に、それはフランス人形を想像していたわたしの思いとは違った表情の人形の顔ができあがった。わたしも欲しそうな顔をするので、父は赤い帽子と赤い服の小さい人形を買ってきた。
その人形を抱いて離さないので、父は人形を抱く児を描いている。
 我家の唯一の家財道具の茶箪笥の横に、三角に目鼻と思われる顔から手がニョキっと出て顔から足が生えた太い線描きの六号の油絵が掛けられた。
鶴岡が内職を届けにいったので、留守番をしてその絵の前で坐っていると父が帰ってきた。
《あれはなーに》《三角野郎だよ!》というと、卓袱台をはさんで坐り、わたしの前で父は箸を両手に持ってたたき、歌いだした。
《あーああーあああ!ちょいと出ました三角野郎が四角四面の櫓の上で、音頭とるとはおおそれながら……》、トントコトントントン、トントントコトコトントントン……。父は仕事を納めてきたのか、その夜はカレーライスを作っている。カレーライスなど見た事も無かったのでうれしい。
七輪の上で子供用と、大人用と、缶の中からカレー粉を入れる。
しかしあの絵の口は男ではなかった。わたしは留守番をしていて唐紙に人の目と口の表情をした猫の顔を描いた。台所の入口にも部屋の唐紙にも描いたので、描き終わると猫たちがこちらを見ている。
ひとりぼっちの留守番は心細く母の帰りを待っていた。
家族がそろって夕飯にむかう頃に《美直子が落書きしたよ!》いいつけっぺされた。
叱られるのかしらんとこわごわ縮こまって待てば、唐紙の前に胡座をかいて、父は猫踊りを描き始めるのでみんなで覗き込む。
《猫を仕込むときは熱い鉄板の上に乗せるから猫は立って踊るようになるのさ!》父の説明に一同納得する。
 海坊主頭のおっちゃんが酒焼けした鼻赤々とさせて、垢まみれのランニング姿でそのうえ安酒の臭いまでさせてやって来た。
自由美術家協会の井上長三郎氏が奥様と二人連れで来られて、《出品したらどうかね》と話されていたが、近ごろ、父は上野で散歩するので知り合いになったおっちゃんが《蒲団なんていらない》ってあたしん家のぼろ畳の上で寝ちまった。父がいうには女房が浮気したのでカミソリで鼻切り落とし、刑務所暮らしをしていた人だという。
上野でリヤカーにのせた箱の家暮らしをして、ニコヨン暮らしで絵を描いているっていうのだけれど…わたしは《おとうちゃんのともだち?》と入道のような男のことを何度も聞いた。
きのうの夜のおっちゃんのおみやげは、ミルクの空き缶バケツの中から、コンビーフのかけら、ビーフステーキの切れっ端、チキンフライの肉付き骨片……を箸でつまみあげれば出てくる、出てきた物は見たことのないものばかり。出てきたものは、スパゲッティにビーフシチュー、進駐軍の残飯、しめて二十円也。
母と姉とあたしも覗き込めば、父がつまみ上げた箸の先に出てきたのは葉巻の吸い殻だ。焼酎で消毒すりゃあ大丈夫と大きな手のおっちゃん、一つまみ肉切れはぺろりと胃袋の中に消えた。
初めて見るコンビーフとチキンフライの切れ端に家族や子供たちはびっくりしていた。
食べちゃった唇ぬらぬらと、おっちゃんは進駐軍のタバコを食後の一服にと父に勧めて、食べてしまった葉巻入りサラダ、食べてしまったナフキン付きビーフステーキ。
あんなこと忘れて、あたしん家の夕飯では、最新式のパン焼き鍋を練炭火鉢の上に乗せて、くずとうもろこしに稗や粟、カラス麦の粉入りパンができあがる。
鶏のえさを粉にして焼いたドーナツ型のぼそぼそパンだが、お腹が空いてなんでも食べられる。ボタン落としの難所を気にもしないで友人知人が土産を持ってやってくる。



 

ボタン落し 画家鶴岡政男の生涯(美術出版社/2001出版)著:鶴岡美直子 父・鶴岡政男の伝記
ボタン落し 画家鶴岡政男の生涯(美術出版社/2001出版)著:鶴岡美直子 父・鶴岡政男の伝記

詩と思想
2009年5月号No.273 Vol.3

鶴岡美直子エッセイ「色は思い出になって」


 私が幼い頃に、父は泰山木の白い花を油壺に投げ入れました。梅雨の寝苦しい夜にビロードの大輪の花芯から香りが部屋に広がり眠りについた。戦争で焼け出され玄関の入り口が開きもしなければ閉じもしない廃屋に一家は暮らし始めていたのです。
 破れ窓に檎箱の板が張られ、節目に朝日が差し込むと朱赤に染まる模様を毎朝蒲団の中から見詰めて、記憶の底から思い出す筈も無い昭和二十年三月十日、大空襲の炎に染まる窓や部屋を思い出しますと、何処の家なのだろうかと母に尋ねました。
 色とは誰でもが体感する生活の中で、香りや感情、音などと一緒に感じ取っているのだろう。母は織り物の仕事をしていたので、色の対比、色相、明暗、彩度、そうした色見本を持っていましたからわたしは知っていた。
 父は絵描きだった(鶴岡政男……代表作品「重い手」)のでわたしは保育園に通う頃からパレットに並べられた油絵の具を見る事が好きでした。物の色を表現する事が絵を習い始める時に指導されるのですが、父から色彩や絵の書き方について教えられた事は一度も有りませんでした。戦後の上野の焼け跡を散歩したりする事は有りましたが芸術論もなく、子供の絵は自由に遊ぶことだと考えていたと思います。
 木炭紙の表面に何種類もの木炭で描くと、黒い色が幾つも有る事を後で知りました。どの黒が好きかなんて考えられない事です。
 黒は土の色、幹は茶色で膚は膚色で描けば良いのでしょうか。子供は約束も無く自由です。木にも様々な色があり、膚に様々な色が有るのではないでしょうか。
 大人になってアフリカのナクル湖に旅して木の幹が黄緑色の林に銀色の手長猿が枝から枝へ移って行きます。下から見上げると陽が透けて光がこぼれてきます。湖には桃色と白のフラミンゴが沢山います。岩場には黒い兎に似た動物がいて、黄色い小鳥や青い鳥が囀っています。枯葉色の中に一筋の道が煉瓦色いいえそれよりも赤く見えました。
 それから絵を描く時に、生命が燃えだすような匂いたつような、あるいは誘うような暗示していると思われる色の組み合わせが有ると思うようになりました。
 何処で生まれ育ったのか記憶と感覚と結びついて色に対しての思いも違うのでしょう。
 ある男が言っていた。僕は赤い服の女を見て興奮する……と。黄色い服の女性は愛情を求めている人だ。桃色の好きな女性は甘ったれだと話していました。逆に考えれば、そんな色を使って男性の気を惹く事も可能だとも言えるのでしょう。
 赤について考えてみても欲情的だとか恐怖へ結びつく炎の色だとか、火炎樹が出迎えていると思える色だとか、運動会の紅白の楽しい思い出に結びつくと楽しい色になります。
 ヘミングウェイの宿泊したホテルの庭は白いジャスミンの花が生け垣になっていて、甘い香りがする庭に青い小鳥が雀のように囀っていた。そこから離れた街キスムでは岩山に雷が走り雹が降り、ビクトリア湖の近くで雨期の終わりの季節だった。
 高く沸き上る入道雲、雲間から姿を現したキリマンジャロ山の姿を畏敬の念を持って眺めた。象の肋骨に譬えられた氷河と岩の白と黒の縦模様が青空に浮かび上っていた。タンザニアの思い出。
 自然の姿はいつまでも変わらないものと思っていましたが、最近のキリマンジャロ山の氷河は消えつつあるようで、氷河も岩山になってゆくのだろうか。温暖化は自然の風影も変えてしまったようです。
 遥か彼方のトルカナ湖を土漠の中で真実の風影と間違えた。喜びと感動の中で、あれは逃げてしまうよ! と少年が教えてくれました。光や水や樹が裸山の中に消えて、蜃気楼だなんて思えなかったのです。
 最近数ヶ月降り続いた雨に湖の水面は木々の根元まで広がり、伝染病の流行で乾物工場や人々を苦しめているとの事だが、思い出は三百六十度の地平線の夕焼けと平行して走る夜行列車、闇の中に動物の瞳が光っていた。
 東京から岩手県、青森へと小旅行した時、五月の連休だったが、若葉の中に山桜が咲き小川が流れていました。
 土漠や砂漠の裸山の風影とは違って日本の風景はとても優しいと思います。
 残雪の中、白樺の木の下に蕗の薹が咲いていて、日本の細やかな自然は深みのある色彩を感じさせます。
 わたしは絵描きの家で育ったため、作家の名前も読めない頃から、自由美術協会展や現代美術展など会場に連れて行かれました。美術館の食堂で初めてアイスクリームなるものを食べている時に、食堂の入口に黒いオーバーコート姿の男が小さな少女を片手に抱いて奥様と一緒に入って来られました。
 わたしは会場で一枚の大作の前で棒立ちなっていたばかりでした。それは赤い服を着た三角形の男が女を口元へ運ぼうとしているから、見上げて我を忘れてしまっていた。
 父から小山田二郎さんだよ! と教えられて、お顔を見ると下口振が紫色に大きく膨らんでいる。十月中旬の頃だったため、コート姿が印象的だった。後に良い時、彼の最高の時代に逢いましたねと人から言われた事が有りました。何しろ戦後間もない頃だったのですから着る事ができれば良いのです。
 父の黒いオーバーコートの裾は裏地が若布のように風に棚引き、靴はパカンと大きな口を開き、破れ靴下の指が見えたりもして、靴底との間に古ハガキを挟んで歩いていたりしました。生きる事に精一杯の時代でした。
 戦地でマラリヤ・赤痢・肋膜になり、戦争の生き残りの父はと我家のぼろ畳の上に膝をつけるようにして親友の松本俊介氏は筆談をしていました。松本俊介氏は耳が不自由な上に間もなく結核で亡くなりました。
 書き続けて行く事ができなかった松本氏の絵の具を御母堂からいただいて、氏のアトリエで父は「死の静物」を描き上げました。その後「夜の群像」を氏のアトリエで描き上げました。わたしは後に池袋モンパルナス展で松本俊介氏が奥様の横顔を描かれているのを拝見させていただきましたが、その中の青は、まさしく父が受け取って、松本氏の死を描いた「死の静物」の中に使われています。亡くなる二十日前に父は見舞いに行きましたので残念がって居りました。
 松本氏はその頃全国の友人に、若い人たちの自由な表現のできるサロンを作ろうと、手紙を送って間もなくの出来事だったのです。「死の静物」の青の中に沢山の意味が有り、戦争画を描かなければ絵の具の配給を受けられなかった時代に、親友を戦地へと見送り成すすべも無く焼け跡に一人立ちつくしている自画像を残して亡くなってしまった。
 親友の思いと、戦後を生きた父の思いが、一色の中に感じとれます。
 現在自由な表現ができる時代に、どれだけの事ができただろうか。自由な恋愛のできる時代がやってきて、幸せがどれ程増したか。「チャタレイ夫人の恋人」を家の棚にみつけました。赤い小さな辞書に似せた豆本です。中学生の頃、わたしはマリー・ローランサンやニキド・サンファールの作品が好きでしたが、オレンジ色が似合うまで歩き続けたいと思います。
 フランスでは六十歳を過ぎるとピンクの似合う年齢と言うそうですから。
 ピンク色を上手に使えるようになると絵も一人前と言われるそうですが、まだまだわたしは迷宮の入り口でうろついているようです。


 

詩と思想(土曜美術社出版販売)2009年5月号No.273 Vol.3

詩と思想詩人集2012

「祭り」 詩:鶴岡美直子

ラジオなのか長屋の奥で
軍艦マーチが流れてくる
せっちゃん家の台所は賑やかな昼下り
隣の屋根の大穴は
焼夷弾の忠が落ちてできたもの
晴れた日には青空が見える
この家の主人は軍隊に行かなかった
日本刀を片足の親指めがけて振り落とした
欄間に先きを折られた刀が三刀あった
流し台の下に立派な忠が置かれていた
主人が からん からん と音させて
下駄をひっかけ敷石道を行く
終戦記念日が過ぎてゆく
わっしょい わっしょい わっしょい
和背負!和背負!なのか
幼かったわたしには わからなかった
町角で茶碗酒を聞こし召した若い衆
米屋の前で銀シャリの塩結びをふるまわれ
褌と草鞋姿の裸神輿が通る
寺の裏道は古塔婆の塀
足を踏ん張るので
外灯の柱も塀も斜めに倒れる
戦争帰りのお兄さんたちには
生きて居たからこその裸神輿
寺の御住職も西瓜をふるまう
米など食べられない時代なので街では
メチールアルコールで死者が出たという
子供たちは遠まきにしてあばら屋に逃げ込む
車を買って祭りにけちしたものならば
車庫に神輿がなだれ込む
あーうー なのか せいやあ なのか
わっしょい わっしょい なのか
違いがわからない
法被姿のお姉さんが神輿を担ぐとは
思ったこともない
深川で芸者さんが神輿を担ぎ
新聞を賑わせたりもした
桜木町から 三崎坂から 初音町から
坂上までやってきて
三基が揉み合い提灯が揺れていた



 

詩と思想詩人集2012(土曜美術社出版販売)

著書のメディア紹介・書評など

1982年7月23日(金)社会新報、村田正夫(潮流詩派の会)会長「ボタン落しの難所」
潮流詩派107号、安西均師(当時の現代詩手帖の会長)の記事「ボタン落しの難所」
1982年6月26日、朝日新聞「ボタン落しの難所」の記事
1982年5月23日、読売新聞(夕刊)「ボタン落しの難所」の記事
1988年、現代詩手帖3月号「ウーシカ」の記事
2001年7月11日(水)新美術新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事
2001年7月22日、埼玉新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事
2001年6月14日、東京新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事
2001年8月31日(金)読書新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事(ヨシダヨシエ)
2001年赤旗新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事
2001年6月19日(火)公明新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事
2001年、上毛新聞「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事
地域雑誌谷根千、其の六十六号「ボタン落し・画家鶴岡政男の生涯」記事

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