鶴岡美直子の父 鶴岡政男 ってどんな人?
鶴岡政男 “ 或る日の私 ”
美術雑誌 “ATELIER”(アトリエ)、1950年10月 285号 特集ページより転載。
鶴岡政男の直筆エッセイと掲載写真をご覧頂けます。
「鶴岡政男 作家の生態1」
“ 或る日の私 ” 鶴岡政男
朝、八時に二歳と六歳の子供を、保育園へ送って行く、小さい方の子も此頃、保母さんになついて、私の後を追わなくなった。家に帰えってほっとする。これからが私の時間である。描きかけの絵を出して眺める。仕上に近づくと、私は絵を見ている時間が長くなるのである。数時間も絵とにらめっこをすることになるので、最も楽な姿勢でないと続かないから、寝て絵を見ることになるのである。随分横着なようであるが、体が楽であるから頭が自由に働くし、疲れない。其のまま眠ることもできるので便利だ。目がさめると絵がある、また描き続ける。
私の家は二畳、三畳、と云う小部屋ばかりなので、離れて絵をみることができない。仕方なしに、玄関の八寸ばかり開いている戸の間から首をつき込んで絵を見るのである。夜中にこうして絵を見ていると、「もしもし」と警官に声をかけられたことがあった。この戸は建てつけが悪いから、八寸以上は絶対に開かない。出入りの時は体を横にして出入する。寒い頃になると、オーバーのボタンが敷居際によく落ちていることがあるので人読んで「ボタン落しの難所」と云う。肥っている人は悪いけれど勝手口から上ってもらうつもりでいるが、幸い家にくる人で余り肥った人はいない。
彫塑もやって見ると面白い。立体であるから絵と違った、空間の問題を持っているので、勉強になる。
午後四時頃に子供達を迎えに行き、ついでに夕食の材料を買い、芸術大学裏のA材料店で絵具を買って帰る。夕方になると家中の者が揃うので、夕食がすむまでの時間が私には一番落つかない時刻であり、うるさい時刻でもある。
夜、木ノ内岬君、大川三平君、浅尾の主人公が遊びにくる。谷中界隈の画家や、彫刻家や詩人などでカルチェ・バルと云う会を作っている。話は岬君と私とが横浜の防波堤へ黒鯛釣りに行った時、私の行方不明事件や、土砂降りの防波堤で朝まで立往生した時の話などがでる。
三平君が家へくる時、暗闇で何にか踏んだら「ぐう」と変な音がしたと云う。それは蟇だよこの辺は墓地だから沢山いる、二人連だったか、と私が云うと、三平君は「さあ」と首をかしげているので、皆は笑った。近頃は世間並にこの辺もアベックが出没するが、蟇にも時々アベックがいるのである。十時頃皆んなが帰えって行った。家族達が寝てしまうと、二畳のせまい画室に、私の世界が夜明け近くまで展開するのである。(自由美術家協会々員)